7.信仰心
「信仰」という言葉をとらえた時に、目に見えざる神仏の存在を心の底から信じ切れるか・・・という自問自答が
生じてくるように感じます。
その存在の曖昧さに対して、人の心は、幸福な時はそれを忘れ、困った時にはそれに縋り
そして不幸を背負っていると思う時には、神仏の存在よりも、自身の現実を見据えることに恐怖を感じ妄信的に神仏へ
逃避するように思えます。
確かに、何かに縋り、何かに指示され、何かに支えられることは
辛さからの脱却という側面を考えると楽でしょうし、結果を何かのせいにしてしまえば責任転嫁も可能です。
「この世には神も仏もいないのか。」と。
しかし「人生を生き抜く。」という側面から神仏をとらえた時に、信仰心の在り方を私なりに「我流解釈」してみると
神仏の存在とは、自己の心の拠り所であり、神仏からの自立も必要であると感じます。
そこからの自立とは、けして神仏を捨てることでも、そこから離れることでもありません。
自分自身が生きていく中で、たくさんの危機的状況が生じた時、神仏に寄りかかることで自分の心を立て直し
また、自らの手で生を切り開き、耕していく「生きんが為の心を支える存在。」であると思います。
だから私は、何もかも捨てて神仏に帰依する生き方よりも、辛い時、悲しい時、迷いの時、一時的に神仏の元で
心を立て直し、またそこから自立して、仕事を達成し、恋愛を楽しみ、生を謳歌する為の拠り所とする生き方を
自分の道標としています。
信仰心とは「生きる知恵」であり、私の心根の中に存在する神仏への信仰であり
それが目に見えぬ神や仏と共に生きるということだと思っています。
それ故、私は神仏に身を任せたこともなく、神仏のためにとりたてて身を投げ出したこともなく、もっと自然に共存してきた
ように感じます。
その存在を信じることが信仰心ならば、その存在は自己の心根と共に生きている・・・
それが、私なりの信仰心だと思っています。
だから切り開いた道の結果が、自分で納得出来ない時には、神仏に心願するのではなく、その結果を自らが背負い、認め
そして心の中の神仏の元へ立ち返り、少しだけ安らぎ、明日という現実を生きるための糧と成す心のカタルシス
それが我流の信仰心だと思っています。
私は自分自身を信じています。心根に共存する神仏と共に。
8.自己の存在を語るとき
人は時として、共通した命題に悩むことがあります。
その一つに「自分が生きていることとは、どんな意味をもつのだろう。」 「生きることとは何だろう。」「日常という時に流されている自分の存在とは、どんな意味をもつのだろう。」 という「生命のともし火感」を感じて悩むことがあります。 人は、自己の存在の意味を知ろうとして苦悩し、また、それが共通した悩みであることは
人が人たる所以なのかも知れません。 自分自身を省みて、私も思春期からずっとこの煩悩たる世界に身をおいています。
でも、最近思うのは、自己の存在に疑問を感じたときに、その解消法の一つとして、
「自己表現・自己主張」の場を自ら作れば良いのではないかということです。
それは私にとって何か・・・私は社会の不条理や、現実に生きている社会が持つ歪みと闘っている時が、自分の存在を感じる
一番の自己表現であることに気づいたのです。
「自分の中の闘う血」を鼓舞しながら、生命のともし火を燃やし続けています。 自分の身近にある「取り巻く社会の問題点」に対し、行政や司法や周りの人間たちに対し、少しでも改革の爪痕を残したい
そして、後世に生きる若者たちに未来を繋げることが出来たら・・・その気持ちと共に、生命のともし火は赤々と燃え出す
そんな気がします。 私の中に以前から感じてきた「闘う血」は、自分を「闘うカウンセラー」として動かし、そこに存在証明を見ているのでしょう。 これは、人が「生きる」という命題を掲げたときに、自分の中に何を感じるか、何を見つけ出すかで方向性は、違うと思います。 ただ、人間がある程度の経験を積んで、生きるということを見つめなおしたときに
多くの人は「人のために何かをしたい。」と思うようになるのではないかと感じることが、間々あります。
その時に、自分自身が出した結論が「社会改革」だったということなのだと思います。
池に投げた小石でも
それが水底に沈む時
水面に波紋の輪を広げ
静から動へと波及する・・・そんな捨て身な小石でありたい。
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