3.ニューハーフクィーン
居心地の良い居場所なら、だれにだってあるはずよ。
私が、私らしく生きられる場所を捜し求めて、ここに辿り着いただけなの。
夜のネオンの中で、煌びやかな衣装をまとい踊っていると「社会」という私に偏見を向け続けた魔物から
かけ離れた世界が広がり、もう、自分自身を理解してもらうことすら必要なくなるの・・・。
だって、ここは、私の分身がたくさん集まる街だから。
そこに居場所を構えた時から、自分らしく生きられる、自分らしく振舞える、そして、自分らしく愛し合えるのを感じるの。
パラダイス・・・今まで誰にも言えずに、肩身の狭い思いをして生きてきたのだもの、これからは自己主張しながら生きていく
ことにしたのよ。
小さい頃から、気がついてはいたけれど・・・。
ねぇ、普通ってなぁに・・・ ?
ねぇ、常識ってなぁに・・・ ?
ねぇ、社会通念ってなぁに・・・ ?
私は何も悪いことはしていないわ。ええ、法律にだって触れていない。
悪いこと・・・もしも、私が悪いと思う何かがあるなら、それは「私を産んでくれたお母さんの気持ちを考えると切なくなる。」
ただ、それだけよ。
それなのに「社会」という魔物は自分たちの論理や価値観を私に押し付けてきて、私を非難するわ。
私は貴方たちの趣味趣向だって認めているのよ。私を非難する権利があるとしたなら、それは差別とどう違うの ?
片方で「人種差別の撤廃」を叫んでいながら、もう片方では「異性を愛し子孫を繁栄しなさい。」と、一般論を押し付けてきて
私をまるで変人のように白い目で見るのは、自分自身の矛盾じゃない ?
でも、もういいの。ちっぽけな社会でも、私は生きていく居場所を見つけたのだから。
その中で、羽ばたいて自由に生きていくことにしたの。
だって、ここだけは、私を受け入れてくれるし、私を支えてくれるし、誰かの目を気にして生きなくてもいい
私のパラダイスだから。

私は、専門学校で、同性の人を愛してしまう人のことを「性同一性障害」と習いました。
私は、セクシャル・マイノリティの問題を「障害」という言葉で括る意味が、心理の現場にいる今でも解らないでいます。
自由社会を獲得した現代、その「自由」が齎した歪みは様々な問題を私たちに提起してきて、
いったいどこまでの「自由」が
許されるのかという、自分なりの価値観を捉え返さねばならない難問を投げかけています。
ただ、同性愛を日本という国の視点から捉えると、アルバイトが増えて税収が無くなり国家破産状態である事のように
問題となるのは、 出産率に影響が出るということくらいではないでしょうか?
でも、この事を言ったら、私も一人も出産していないように、同性愛の問題だけでは括れません。
それならば、何故、同性愛者に偏見を向けるのでしょうか? 拒否反応を示すのでしょうか?
彼ら(彼女ら)も、社会人であり、日本国民であり、何をもって愛を語るかという時に、自分の価値観や趣味を押し付けている
だけのような気がします。
理論のレベルとして「あんた、借金のある男なんて止めときぃや。」というレベルと同じ・・・つまりは「おせっかいレベル」に
等しいのではないでしようか?
他者を認める・・・という観点で捉えると、「性同一性障害」という、私の教科書に対する「何で障害?」という疑問は
間違っているのでしょうか?
余談になりますが、何故に歴史を学ぶかの一つに「歴史の流れを追うことは、例えば、戦争という恥部を知ることで私たちが
反省することが出来て、現代をどう生きていけばよいかを示唆してくれる。」ということがあると思います。
ならば「偏見」という歴史的反省点に、つい最近の「ハンセン病隔離」の問題があります。
多数に押し流されずに、感情的な認識を捉え返すことでそれに流されずに「偏見」や「差別」という問題を捉えていきたいと
私は思います。