カウンセリングハウス Concierge順子 〜コンシェルジュ ジュンコ〜 Concierge順子はこころの救急車です。
カウンセラー紹介カウンセリングハウスのご案内出張カウンセリングほっとカフェ
カウンセリングメニュー

19.霊性
「宗教は阿片である。」大学で専攻していたカール・マルクスの有名な言葉です。
「阿片」の解釈に「麻薬」と「痛み止め」という二つがあるようですが、どのみち人間にとっての心の痛みは
そこから逃避しても終結はせず、現実問題として解決していかなければ回復はしていかないので
どちらをとっても、レーニンが述べた「毒酒」と相違ないということです。

大きな括りでは、学問として、そして経典として、長い歴史の中、検証されてきた「宗教」そのものに
異存を唱えるつもりも無く、例えば、釈尊から学ぶことも個人的には、たくさんあり、その教えの一部分は
人間を洞察する時に見えてくるものとも一致していて、釈尊の語り継がれる人間性にも敬意を払っているのは確かです。
良いとこ取りかも知れませんが、自身の学びの一部として、受け入れられる部分だけ(当然のことながら)
素直に、究めていきたいと思っています。
ただ、あの世を紐解く「霊性」なるもの、目に見えずに否定も肯定も出来ない部分、そこを架空の絵空事のように
講義したり、まるで生命の神秘の源を断定できているかのように語ったり・・・または、これを、あたかも
「人間の感性」のように取り入れた心理療法が出てきたりと、そんな「新霊性」と呼称されるものに対して、個人的には
慎重な観察を続けています。感性とは、現実をとる力であって、見えないものをとる力ではありません。
よって、感性は現実を乖離したものでは無いのです。知性と感性、生きていく現実の日常の生活の中で
地に足を着けて、育んでいくものだと私は思っています。

批判的であるにせよ、私が「霊性」を話し始めたのに対して周囲が驚いていることは、耳にも入ってくるのですが
元々、カウンセラーとして開業する、ずっと以前にはマインドコントロールを解くことから、某所に研究対象としての潜入
(体験学習)などの月日を経て、カウンセリングという職業従事となったので
私が霊性を語ることは不自然なことではないのです。

何故に沈黙を守ってきたかは、個人的な理由が二つあり
一つ目は、先日の研修会の講義でも、少し話しましたが、友人が無残な亡くなり方をしているからです。
友人は、信心深い人でした。教団の霊性の言霊を信じていました。20代の頃から・・・。
私も、その頃は20代、同じ年齢の友人だったので、そっと見守っていました。
「縋るところが欲しかった人間の脆さ」それは、それで理解は出来ました。
その友人は30代に、乳癌の宣告をされました。
霊性の言霊は、霊的現象と告げました。
早期発見の乳癌を、友人は「私のは手術しても、霊的な因縁だから、無駄なのよ。祓うしかないの。」と言って
誰の説得も聞かなかったそうです。
末期の乳癌は破裂して膿を出すそうです。
宣告から6年後・・・
友人は苦しい中、こう言いました。「あぁ・・・神様は、私を助けてくれたんだわ。悪いもの(膿)を出してくれた。」と。
友は、破裂の数日後、この世から立ち去ってしまいました。私の怨念だけを、現世に残して・・・。
もう一つは、個人的な性格の問題です。私は、人や神仏に何かしてもらうことを、あまり好む性格ではなく
「祈る」とか「願う」ことはあれど、その時は、自分の生命と引き換えに祈願することにしています。
あとは、自力解決・・・生き方の価値観の部分で、頼るということが嫌いなだけです。(つっぱりかしら?笑)
残念ながら、神仏が叶えてくれたことが無いので生存していますが・・・。

友人の御好意で、今日「A」 「A2」というDVDを、お借りしました。オウム真理教の事件後の若者たちを
森達也監督がルポしたドキュメンタリーです。
現代の若者たちは「修行」が好きなようです。しかも、千日回峰などでは無く、瞑想やヨガなど道場で
精神統一が出来るような修行傾向を持っています。
俗世にいると、そんなに迷いがでるのでしょうか。自己の煩悩の全てを背負い、認めながら生きている私は
生きていくこと自体が、修行のように楽しくもあり、たいへんでもあり、なので、若者たちとは
選択した道場が、違う様子です。現実から逃避して、苦悩が消滅するわけでは無いことに
気付いてくれているのなら、いいのですが・・・。
自分と違う他者に対して、説得や説教は無意味であることは、私ですら理解できます。
まず、現代に生きる「新霊性族」なるものの行為では無く、感情を理解した上での分析から始めたいと思います。
そこから、また、カウンセラーとして、どう対処するケースなのかを感じ取っていきたいと思います。

逆に、私の個人的ルサンチマンなどは、破壊本能からくる自我保存衝動にすぎないのでしょう。
だとしたら、怨念をぶつけてみたとて、それこそ、無意味を繰り返すだけです。
自我の成長を学ぶ現在、自己成長の難しさは感じています。

釈尊の時代のお話で、母に読んで貰った絵本を、うっすらと記憶しています。
ある飢えて倒れそうなバラモンに、動物たちが、みんなで相談し、食料を野山から集めてくることになりました。
ところが、その動物たちの中で・・・*うさぎ*だけは、食べ物を取ってくることが出来ませんでした。
うさぎは、そのバラモンに火を焚くように告げ、自らが赤々と燃える火中に飛び込み、身を挺して食料となりました。
このお話を聞いて「私は絶対、こんなバラモンにならない。犠牲の上になりたつ命なら要らない。」と、子供心に
そう、固く決めたことを憶えています。こんな話は美談でもなんでも無く、残酷な物語だと・・・。

人間が創り上げた現実の世界の中で、残酷な物語は、路傍の石と同じだけころがっています。
自己の身は、自分で守らなければいけないのでしょう。
ただひとつ、もしも、私かバラモンを愛していたのなら、私は*うさぎ*になりたいと思う事実も存在しています。
まだ、かなり視野の狭い愛であっても、愛するものを、守るために闘うことも、自身が貫き通す生きる現実であると
捉えています。そして・・・自己の生命は、多分、こうしている現在も、何かの犠牲で成り立ってしまっているのでしょう。
しかしながら
どんな生き方をしたとて、生きることは何かに縋り続けることでも、現実から逃避することでも無いと思います。
人間の成長を思うとき、時折、何処に進めばよいのかを、見失いがちになり、立ち止まりながら我が道を
模索しながら、それでも「生」は、刻々と時を進めていっています。
犠牲の上に成り立つ我が身でないようにと・・・今は、自分なりに祈願する術しか持ち得ないのでしょうか・・・。

↑このページのトップへ

 

新宿区西五軒町3-18セントヒルズ神楽坂409 TEL/FAX:03-3269-8526 mail:junko@concierge-junko.com
カウンセリングタイム:10時〜21時30分 定休日:年中無休

HOME