人の真価とは、いったい何で問うものでしょうか?
例えば、綺麗な御託を並べる人間が、世の中にはたくさんいます。「貴方のことを、心から思っています。」
「命をかけて、物事をしています。」「貴方のことを、大切に考えています。」
こんな言葉の羅列を聞くと、人は少し嬉しくなります。そして、コミニュケーション不足と言われる現代社会の中で
人と人の絆が出来たような気がして、心強く感じます。
こんな中で、人の真実を如何見抜いて生きていくとよいのでしょうか?
言葉は、コミュニケーション手段として、確かに大切です。
だけど、本当の人間の真価とは、何かの結果を残し、何かの行動を起こし、何か実行に移すことで現れるものでは
ないかと思います。
加えて、インスタントな言葉は、必ず矛盾を生じてきます。
カルトの教義が矛盾点を露呈するのと同じです。
例えば、命をかけて物事をしている人が、突然、命乞いを始めたり
例えば、人を大切に思っていると言った人が、突然、相手から逃げ始めたり
人の真価とは、極限の環境や状態が、人に生じてくると、その真偽が見えてくるような気がします。
綺麗な言葉を発している時、その語り部も本当は「気持ち」がよいものなのでしょう。
立教大学の福祉学部の授業では、私たち周辺の仕事の注意点として「自己満足に陥るな」と教えるそうです。
「巧言令色少なし仁」という諺は、極端な言い方なのかもしれませんが、生きること自体が綺麗事ではありません。
生きること自体が、たいへんな思いを背負っていくということです。
その中でも、人と人が結び合い、励ましあい、支えあって、背負ったものが、苦しく重くならないように
片手落ちの関係にならないように、共存し合うことだと思います。
個人的には、ともすれば我が強い自分自身で、共存関係を嫌い生涯自営を貫いている部分を持っている自身ですが
人生の総体が人間関係であるならば、せめて「責任」というくくりだけは、自分から外さないようにして
それを自己真価の評価の基準としています。
ともすれば、優しさは仇となることもあり、片手落ちになることもあり、ここを基準とすると自分がぶれると感じます。
人への責任によって、自分の真価を自問自答するように、決して「マスターベーション」のまま生きていくことがないように
残りの人生を、今をスタートラインにして歩んでいこうと思っています。
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