カウンセリングハウス Concierge順子 〜コンシェルジュ ジュンコ〜 Concierge順子はこころの救急車です。
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つれづれ日記

27.(H.20.6.30記)
慈愛(愛・その2)
正直、愛という概念の深さに、たじろぐ自分がいます。
前回、アガペーとエロスを書いてから1ヶ月近く経ちますが、まだ掴みきれていません。
男と女の愛に対して、現実の世界を語るとき「その愛は、蜉蝣か?」と投げかけることには慣れていても
大きな括りの中で、真実を掴もうとすれば、するほど、愛が掌から逃げていくように感じています。

カウンセリングを生業と成している自分自身、その臨床現場に入る時、自己の経験は確かに血肉化しているのですが
そこに存在する意識は白紙の状態であると認識する時があります。
また、ある方から、それを指摘されたこともあります。
この状態は、全行程では無いのですが、初めての面談の時には、特にそうなるような気がしています。
こういう時、私は釈尊の「無我の境地」という言葉を想起してしまいます。

慈悲の心、慈愛を説いた釈尊の「無我」という悟りに、私たちが及ばないこと、それは釈尊が釈尊たる所以として
その存在を、時を越えて知らしめる理由であることに変わりはないと思います。
ひとつだけ、甘えを許していただくなら「無我の境地」その「境地」に至ることを理想として
自我の発達の頂点と成せないものかと考えています。

人間は言語と伴い「自我」が芽生えます。この自我を無くすことは、不可能です。
不可能に近いことを説いても、机上の空論となってしまい、実生活に及ぼす影響は皆無に等しいこと・・・
だからこそ「無我」に至るのではなく「無我の境地に至る」ことを、言葉遊びのようですが
自我を基軸として考えて、いきたいと思います。

自己超越、個を超えて・・・心理学では、そんな言葉で語られますが
ここに至るための人としての成長も、これもまた、自己の「欲」との軋轢に苦悩するのが、人の業です。
綺麗な言葉は、誰にでも吐けますが、生理的欲求はともかくとして、身体内部の情報に基づいた欲求(例えば3大欲求など)に
従順なまでに反応する自己がいて、ましてや、マレーの研究による30以上の心理・社会的欲の分類においては
遊戯欲求などは、外せないものです。笑。(ここの部分の欲求は、あまり強い方ではないと思います。あんまり無いなぁ)

ここを外していく為には、先ず、第一に「自分より大切な何か・・・」を、所有することではないでしょうか。
なるほど、養育者は眠いのすら我慢して、時には、やり繰りのために食欲すら我慢して自分自身を分け与えます。
それが、忌み嫌うほどの自己犠牲に感じるのか否かは、また別の機会として
本当の意味での「慈しみ」の心とは、自己を超えた何かに向ける愛という定義と言ってよいと思います。
「守りたい」という気持ちから、発するのかもしれません。

欲求は、必ずしもマイナス面をもたらすわけではなく、求知欲・解明欲などは知識を得るために、必要不可欠な要素です。
ただ、深く考えてみると、ここすらも、自分以上に大切なものを所有した時、捨てていけるものであることは
確かなのかもしれません。
「自己忘却」自我を忘れさせる境地に、人を揺り動かすもの、そのひとつを「慈愛」として
慈しみの心を育むためには、他の何かに、自身が愛を与えられるだけの強靭さを必要とされるのでしょう。

強靭なる魂・精神力を培うためには、不安や苦悩を背中に背負っても、髪を振り乱して生き抜くことも然り
それを超えたら、命を超えて守るものを、ひとつだけでも自分に持つことも然り
他者に向ける慈愛は、自己へのこだわりから離れてこそ成り立つ愛なのだと思います。
そしていずれ、この幅が広がっていった時、釈尊の説く「生きとし、生けるもの、全てに愛を・・・」という言葉が
うっすらと、見えてくるのかもしれません。

「慈愛」というものを社会という枠組みで見ていくと、混迷する価値観の多様化・アイデンティティ・クライシスの中
私自身が、感じることは、生きることにおいても、社会においても「不文律」が、無くなってしまったこと
または、それを示すものが皆無に等しいことを感じています。
慈しむ心を育てると同時に、その慈愛を活かしていける社会への投げかけも大切なのだろうと思います。

後記ひとり言
駄文「慈愛」になったなぁ・・・と感じている中、書きながら、対等な立場である恋愛に、果たして「慈しみ」の心は
芽生えるのだろうかという疑問点が湧きました。
外をお散歩すると、手をつないでお互いに、気遣い支えあう老夫婦の姿を拝見します。
こんな時に「あぁ〜いいなぁ、ほのぼのしている。」と、こっちまで温かくなってきます。
もしかしたら、男女の仲で慈愛を育てるには、歳月を必要とするのかもしれません。

ひとつだけ、例えば片思いの人がいて、その人を影ながら見守りたいと思う気持ち
この心の中に潜む感情は「母性」に近い本能なのでしょうか。広くとらえると、これも「愛」なのかもしれませんね。


 

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