カウンセリングハウス Concierge順子 〜コンシェルジュ ジュンコ〜 Concierge順子はこころの救急車です。
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つれづれ日記

26.(H.20.6.5記)
アガペーとエロス(愛・その1)
もしかすると、愛という概念は、一番解明し難いものなのではないか・・・と思っています。
たとえば、自己に発生した感情(自己愛・家族愛・親子愛・性愛など)を呼ぶならば、その湧き上がりしものが
愛なのか否か確信を掴むこと自体が難しいのではないでしょうか。
何故なら、愛は反面、エゴイスティックな要素も含んでいて
「自己の思い」が通じない時に、「自己の思ったようにいかない時」に、その愛に疑問を抱くのが人の性だからです。


ここで愛の種類とされる「Agape」と「Eros」について、人と人が関わる中に、如何に存在するのかと
あくまで、現在の日本国内に生きている実生活の範疇で、個人的に考えてみました。
愛という概念は、私には個人的な視野から広がりを見せてくれないほど難しい概念です。

Agape   無償の愛と呼ばれる愛を、仮に私自身が下降のラインの中で、与えることには、あまり抵抗は無いですが
人から一方的に延々と与えられたことを想像しただけで、息苦しく、悪寒が走ります。
無償に与えられたものに対し胡坐をかいて、人は生きられるのでしょうか・・・
何か返そうとする以前に、私は逃げ出したくなるでしょう。
自己の存在理由が、そこに感じられなくなったら、人はその場で生きられないものです。

決して、私は愛を受けずに育ったわけでは無く、逆に自己愛が強いと揶揄されるほど、自分で自分の存在を
肯定しながら生きています。
豊潤な愛を受け入れた幼少期を過ごしていることは確かですが、生育後の人間間で無償と言われると寒気がします。
気持ちのキャッチボールを形にして返してもよいのなら、愛を受けた感謝の念は返しているつもりでもいます。
ええ、たとえ親子の間でも、何十分の一であっても・・・一方通行は、納得がいかないからです。
そのくらい、無償の愛を投げられることは、自身に重いのではないでしょうか。
近代合理主義に私が、毒されているのでしょうか・・・・無言。

アガペーは
キリスト教における神学概念の中の、神の人間に対する愛、キリスト教徒の間での相互の関係論における愛が
発端となるのでしょうが、私は元々人間は「汝の敵」は愛せないと思っているので、人間の関係性の中での
アガペーの存在は疑問です。
唯一、例えられる「親子間での母性」というものが、それに近いことは理解が出来ますが
アガペーの本体は、ここには無いように感じます。
何故なら、親が子を愛していることの中に、相互依存や子育ては自身の捉え返しだということが
含まれている限り、一方的に無償になれるかと言うと、
それに、かなり近いのかも知れないけれども、=では無いような気もするのです。

だからと言って、私もアガペーの恩恵を受け取っていないかと言うと、そうではなく
普遍経済に言われるように、太陽の恵みを一方的に受け、木から酸素をもらい、雨から水を飲ませてもらい
自然界に守られて生活しています。確かに、自然は私にアガペーを与え、私はそれに縋っています。
ここは、現実的に、自身も自然に感謝して、守り返さねば・・・と、非力ながら思っています。
そして、袖触れ合った動物たちには、無償の愛に近いものを、注げているようにも感じています。
だけれど、これとて、自分がしたくてしたことです。代償を望まないことがアガペーだとしたら、私にとって
恋愛もアガペーということになってしまいます。望んでも得られないと悟ったものは生涯、望まないですから。苦笑。
(ついに・・・悟ってしまった????笑)
でも、確かに動物たちに捧げる愛には
次回で述べる「慈しみ」という感情が存在しています。自己よりも立場の弱きものという認識の元に。

Eros  プラトニックという言葉は「プラトン」と言う哲人の名から来たもので、現代で使われているこの言葉の意味は
ギリシア神話的なエロース(意味・・・性愛)の影響かどうかは解らないですが、純潔という意味です。
ただ、プラトンは好色であったらしいですから、プラトニックも本来の意味が消滅してしまったのではないか、と私は思います。
エロスはプラトン的には「イデアに向かう愛・・・真・善・美の世界へ到達しようとする愛」です。
そして、自分に欠けたものを希求する「求める愛」とも言われます。自己発生的に、より高次元のものを
求めていく情熱を生み出す愛が、エロスなのでしょう。

人がエロスをもって上昇するには、コツコツと絶え間なく努力をする必要があります。
ただし、人は一気にウルトラマンにはなれません。釈尊に憧れても、一足飛びには近づけません。
理想と現実の狭間の中で挫折しながら「自分は大丈夫だ」と
確信しながら、一歩、一歩、近づいていこうとする万能感が必要とされます。
ここの器を育てるには、幼少期に養育者からの愛情(アガペー?)が、必要不可欠だとされます。
ならば、アガペーとエロスは循環している愛なのでしょうか。

こうして、アガペーとエロスを考えていくと、自己の狭い日常の人と人との関係性の中に
自分が持ち得ているかと問えば・・・?です。
それは、平和ボケした中流意識の生活において自身が
アガペーが上から下へ降りていくこと、エロスが下から上へと上昇していくこと・・・その上下関係が
捉えられていないからでしょう。
もちろん、人間として日々、自分を磨くために、学び、眠い目をこすり勉強し、そして遊びながら、いろいろな経験を
していこうとする姿は存在しています。でも、これは自身のそうしたいという欲求から出ているものである限り
高次を目指しているかと言うと疑問があり
それは、人生観に立ち返り、納得した人生を送りたいから・・・ということに帰結していきます。
自分から出で、自分に帰る部分でしかありません。これは、上を望むものでも何でもない限り、エロスとは
言わないのでしょう。

愛は難しい概念です。恋愛カウンセラーなんて呼ばれていても、私は実は・・・愛の実体さえ掴めていないのだと
思います。確かに、自己から発生するものが*愛*なのでしょうが、では、崇高なる愛の姿を
追い求めた時、どうしても釈尊の真理「無我の境地」が、外れていかないのです。
8月には、新潟県で「愛」を語らねばなりません。次回、そのことを書きたいと思っています。


 

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