20.(H.19.8.17記)
掌の詩
指先でつまんだ、一握りの塩を掌に乗せて*おにぎり*をにぎる。
少しだけ赤く染まった額に、掌を乗せて*熱*を計る。
ときめきながら、頬を染め愛を確認するかのように、掌と掌を繋ぐ。
潰えた瞬間の気だるさの中で、掌を合わせて指先を絡める。
老いた身体の節々を、自分に生を与えてくれた肉体に尊厳を込めて掌でさする。
我の先逝く魂よ、安らかなれと、掌を合わせる。
その行動の賞賛に対し褒め称える為の表現として掌で頭をなぜる。
人が「掌」の、温もりを忘れてから、どのくらいの時が経つのだろう。
いつしか、人は触れ合うことを日常から減らして、言葉少なに耐え切れぬ孤独を背負おうとする。
人間関係は確かに煩わしいという側面を持ち、そして確かに、諍いというものをもたらす。
人が孤独に耐えられる動物であったなら
そして、たった独りで旅立つことすら厭わない動物であったのなら
それは、それで、生き方として認められるべきではある。
だけど、人は「弱き生きもの」であり、差し出された掌に縋りつくように温もりを求める。
自分の歩んで来た足跡すらも、人々の記憶に残るよう・・・そう、願ってやまないのも人である。
人が、掌をあまり使わなくなってから、どのくらいの年月が流れるのであろう。
手作りで捏ねていたものが、簡略化されてから、どのくらいの月日が流れているのであろう。
こんなことを考え始めたのは、お盆休みで実家に帰省した時に
母が話してくれた今年の小学校の運動会の様子を聞いてからでした。
「今年の運動会、お昼のお弁当にピザ屋の宅配が来たり、デパートのオードブルが出て来たりしたらしいよ。」
私は思わず言葉に詰まりました。
貧乏であっても「塩むすび」を作ってもらった自分たちを幸せに思いました。
御爺ちゃん、御婆ちゃんが、朝早くに茣蓙をひいて来てくれて「場所取り」なんて言って交代で
私たちが競技に参加している姿が、見えやすい場所を取ってくれた「記憶に残る思い出」の残像も
以前と現代では様変わりした様子です。
どちらが、人の心に暖かいのだろうということを考えました。
掌の温もりを伝え合うことなしで、人は生き抜けるのでしょうか・・・?
どちらかというと孤独好きで、独り暮しの長い私でも、そう感じました。
自分自身の、小さな周囲でもいい、掌を思いっきり使い、自分から発信していこうと決めたこの頃です。
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